フィクションのための会話哲学

三木那由他 氏が「会話を哲学する」という本を上程されている。フィクションにおける会話をテキストに、スマートに会話を哲学的に解釈に解釈されている。

読み進めるうちに「これは逆にすぐれたフィクションに使われている会話を分析されている」と受け止めることもできるのではないか、と考え、各章における論考をフィクションに使われる技法という視点で、まとめてみた。

第一章 コミュニケーションとマニピュレーション

会話の二側面ないし会話の二項分解

約束事の形成としてのコミュニケーション

心理や行動の操作としてのマニピュレーション

フィクションに使われる技法

会話によって成立した約束事と、その約束事から成立する"一般的に期待される"マニピュレーションをずらすことによって、読者に意外性を与えフィクションを楽しいものにさせる。

第二章 わかり切ったことをそれでも言う

バケツリレー式コミュニケーション

発話者の考えが受け手に伝わり、受け手が理解する

自分が知っていることを相手が知っていることが分かっていても、あえてそれを言葉にするように望んだり誘導したりする。

フィクションに使われる技法

フィクションにおいて、当事者の気持ちや思いのすべてを知りえるのは、読者だけであり、登場人物が自分の気持ちを表出しなかったり、表出した気持ちを受け手が誤解したりという話の流れで読者は全能感を覚える。

進んでは、読者に登場人物の思いを明示しないストーリーを作る場合、読者の"常識(こう思うだろうとか思っているだろう)"を覆すストーリー展開にすることで、楽しいものにさせる。

第三章 間違っているとわかっていても

実世界での会話では、「それを言っちゃお終いよ」ということが多く出現する。本当のことを言わないことで、人間関係や社会運営を円滑にしていくのが"大人の"生き方なのだ。

フィクションに使われる技法

あえて、間違っている発話を登場人物にさせることで、読者の共感を呼び、その後本当のことを発話させることで、読者の安心を呼んだり、本当のことを発話させないことで読者に深い印象を残す。

第四章 伝わらないからこそ言えること

ここでは、フィクションに現れるサンプルとして日本語を理解できない外国人に対して出演者が発話するというシーンなど、相手に届かないことが約束された発話を人がすることが紹介されている。そして、その不合理な発話の現実例を示さぬまま「ひとはときに」と受け入れている。

フィクションに使われる技法

筆者の取り上げているフィクションの世界は漫画という絵と文字からなる媒体である。現実では行われない会話が行われるのは、絵と文字という制約されたメディアだからこそ取ることができるのかもしれない。

ただ、事例としてあげられた「日本人が外人に話をした事例」では外人が少しわかる日本語と、相手の表情でその気持ちを理解したこと、「聞かないけどね」といいながら、他に発言を誘導するという会話は「聞かないけど」という約束事をベースにした会話であること、墓の前で死者に向かっての主人公の発話を、墓のそば影でその話を一番聞いてほしい人が聞いているというシーンも、見方をかえれば「発話したことは必ず理解してほしい相手に届く」ということを読者に伝えているのだと理解できる。

自分の発話が自分に向けたのではなく、他に向けたものでそれが100%他に届かないことが保証された状態で、人は発話するのだろか?

メディアを通じてパブリッシュされる発話は往々にして届いてほしい人に届かないものだけが。

第五章 すれ違うコミュニケーション

その場では約束事が形成されたように話し手も聞き手も思っているのに、のちにいずれかがその約束事に反する言動を始めたり、あるいは話し手が想定していた約束事と聞き手が想定していた約束事が食い違っていることが判明したりする。

コミュニケーションがすれ違った場合のすり合わせは、どうしようもなく会話参加者同士の力関係や社会的位置に影響されることになり、社会的に力が弱いもの、マイノリティーなどが不利になることが多い。

フィクションに使われる技法

コミュニケーションのすれ違いは、日常茶飯事であり、そのすり合わせと修正は社会生活そのものであるともいえる。フィクションにおいても、同様で、終始一貫登場人物が共通の理解、共通の利益をもって、物事を進めていく、といったフィクションでは、面白くもなんともない。

ただ、筆者の指摘しているように「力の弱いもの、マイノリティが不利」という現実を否定し、すべての登場人物が安定した状態になる、という筋書きがフィクションのフィクションなるところである。

第六章 本心を潜ませる

相手の行動を求める、マニピュレーションとしての会話の側面において、発話そのものに直截的にマニピュレーション事項を込めるのか、婉曲な表現で発話に潜ませるのかは、会話をする当事者間の関係や、会話されているその場の雰囲気で変わっていくものである。

フィクションに使われる技法

いうまでもなく、文芸作品の楽しみの一つは、その表現の形(フォルム)を楽しむところにある。フィクションという表現において、すべての会話や行動が直截的なものであれば、読者は娯楽を感じることはないだろう。(役所から発出される文章には文芸的表現はいらない)。

現実の世界でも同じように、フィクションの世界でも、登場人物に多面性を持たせることで、悩みや対人行動などの演出に厚みを持たせ、より複雑なストーリーとして読者に娯楽を与える。

第七章 操るための言葉

聞き手も気がつかないうちに聞き手の心理に影響を与え、それによって聞き手の振る舞いを一定の方向に導こうというタイプの発言

疑問に思っていないことに対して疑問を投げかける。「彼は正直ですか?」。それにこたえることで、正直か、嘘つきか、の判断の中で嘘つきという可能性があることを想起させる、という手法。

比喩の力。「バロックはペストだ」と身近なものを比喩に使う事で、比喩した言葉に付随する意味合いを比喩された言葉に付加されていくこと。

言い換えの力。ドイツ兵(敵+人)を「フリッツ(敵)」と呼ぶ。言い換えをすることで、二つの言葉に共通する意味(敵)だけが残り、元の言葉「ドイツ兵」には付随する(人)という意味が消されて(敵)だけになっていく。

「ゲイを差別するわけではないけれど、でもみんなゲイになったらどうなると思う?」というマニピュレーション

筆者は、「みんながみんなゲイになったら新しい子供が生まれにくくなって困る」という返答をマニュプレートしようと話者が思っての発言である、と解釈している。「みんながゲイになる」というあり得ない仮定をすることで、みんながゲイになる世界を考えるという「思考が一定の方向に誘導される」と考察している。

ただ、それが「悪いこと」だけを思考することをアフォードしているわけではなく、みんながゲイになることでジェンダー問題がなくなるという平和な世界が訪れる、といったことが結論として導かれるのも、理論的である。

さて、では、筆者はこの質問の返事が不都合なものであらねばならない(「自分では言わないですか」と記述しているので、不都合な答えを自分の中では出している)としたのか。

それは、先にある「ゲイを差別するわけではないけれど」の一文にあるだろう。この発話のなかには、「ゲイは一般に差別すべきものであるという、通念がある」という暗黙のコミュニケーションがあり「ゲイ→不都合なもの」という「約束事」としてのコミュニケーションが成り立っていることを、筆者は(知ってか知らずか)明示していないところから来ると考察される。

これを「性の多様性は当たり前のことだけど、でもみんなゲイになったらどうなると思う?」とすれば、その考察はずいぶん違うものになるであろう。

おわりに

会話において参加者たちはその個々人の心理を持っている。

会話の背景には、それぞれのひとの人生や感情があり、そして企みがある。

フィクションというのはどこかで現実を反映しているものである。

考察

会話をする人たちは、個別の心理と共有する通念を持っている、個別の心理の溝を共有する通念で埋め合わすのが会話といえないだろうか。そこには、それぞれの人生や感情を快適にするという目的に向けての企みがある。

フィクションにおける会話は、現実におけるものを参照しながらも、そこに現実にはないズレを生じさせて、読者の心を揺さぶることで、娯楽をあたえると考えられる。

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