因果経和讃

因果経和讃は、現在においても仏教の教えがあたかも差別を認めているかのように扱うための根拠となっている偽経「善悪因果経」を漢字かなまじりに意訳したものであり、江戸中期以降に寺請制度によって宗教統制がなされた後、明治時代から現在までも日本人の死生観や道徳観、特に差別思想に大きな影響を与えているものです。

例えば、多くの日本人は自分が生まれる前に前世という生があって、前世でやったこととか、前世で犬や猫など人間でなかったことが現世の今のいきざまに影響を与えていると考えていますし、自分の死んだ後に来世という新しい生が待っていて、現世での行いが来世の生に影響を与える、と考えています。現世で悪いことを行うと来世ではその報いでゴキブリになったり、現世で良い行いを重ねると死んだ後の来世では幸せになれるとする話は当たり前のように語られています。

こういった前世-現世-来世がつながっているという死生観からみちびきられる考え方は、「前世でゴキブリだったから、現世でゴキブリのような生き方をしているんだ」とか、「現世でゴキブリのような生き方をしていたら、来世で本当にゴキブリになってしまうよ」といったある種の運命論を導いてしまいます。

仏教を開いた釈迦が上に書いたような、過去の結果が今に影響を与えるという輪廻説をとっていなかったことを表す有名な言葉があります。

"人は生まれによって尊からず その行いによって尊し"(スッタニパータ)

人は生まれる前になんらかの原因があって、生まれてから自動的に尊い者になるのではないし、今の行いを先々の尊さのために積み上げるものではなく、今の行いそのものが今尊いのかどうかが問題なのである、と理解できるでしょう。

釈迦は出家してバラモンという聖者の宗教家の一人として修業を重ねていました。バラモンの宗教には業や輪廻や因果応報といった思想があったのですが、釈迦はそのバラモン思想を否定した反体制派であったのです。だから、釈迦が手に入れた思想(仏教)には元来運命論的考えはなかったのです。

鈴木隆泰氏は、仏教思想の基本的構造を下のようにあらわしています。[i]

"「当人の責任の及ばない過去世の業への責任転嫁」を認めない一方で、仏教は行為・業の重要性を強調し、積極的に善い行い(善業)の修習を勧めている。教主である釈尊自身が自分は行為論者・業論者であると宣言しており、また、仏教の教説の基本は「悪業を止め善業を修し心を浄めること」にあるとも言われるほどである。サンスカーラの無常性を弁えた上で、悪業を止めて善業を修する。その人の行いによって賎しくも尊くもなるように、悪業からは悪しき結果が(悪因悪果)、善業からは善い結果が導かれる(善因善果)。「過去世の業に責任転嫁しない、主体的な因果応報」が、仏教における業論の基本形であると言えよう。"

そして、「現世→未来、来世」は強調しても「過去世→現世」には言及しない、という独特な業・輪廻思想が釈迦の思想には展開されていたと指摘しています。仏教の基本理念によれば、「安心して善く生きる」ための実践指標(処方箋)がその教えの根本にあり、それを受け止め、味わい、今の人生をより善いものする努力をすることが、仏教者の信であるといえるでしょう。

しかし、仏教が広まるにつれて「今日→明日」は論じても「昨日→今日」を論じないという非対称性に我慢できない仏教者たちは西暦400年頃に唯識論なる思想を体系化し、人間の識の最深層に過去から未来に一貫して変わらない「阿頼耶識(アーラヤ識)」という考えを生み出し、業によって輪廻する個人の主体を規定したのです。これは、バラモンの教えであるアートマン(我)の存在と同様な概念であり、無我を説いた釈尊の思想からは大きく離れたものとなってしまったと考えてもよいでしょう。

輪廻主体の問題が解決された先に待っていたのが「前世の業が現世に報い」といった宿命論であり、そこから人間の根本欲の一つである「差別欲」が正当化されるような偽経が作られる素地が出来上がっていったのだと思います。

そういった背景を理解されて「因果和讃」をお読みいただきたいと願います。

因果和讃は「問」と「答え」というセットで成り立っていますが、「答え」の部分は「間違った答え」と心にして、お読みいただきたいと思います。


因果経和讃(いんがきょうわさん)

南無(なむ)本師(ほんし)釈迦(しゃか)如来(にょらい)  五濁(ごじょく)(あく)()出現(しゅつげん)

(せっ)(ぽう)波羅那(はらな)にし(たま)へり  (その)(とき)御弟子(みでし)()(なん)(そん)

善悪(ぜんあく)苦楽(くらく)(その)(ゆえ)を   未来(みらい)末世(まつせ)我等(われら)まで

一一(いちいち)()らしめたまはんと  (とひ)つこたへつ因果(いんが)(きょう)

(いま)(この)(きょう)和讃(わさん)とす   後世(ごせ)菩提(ぼだい)(ねが)ふ人

老若(ろうにゃく)男女(なんにょ)もろともに   (とな)へて我身(わがみ)()きくらべ

因果(いんが)道理(どうり)(わき)まへて   仏道(ぶつどう)修行(しゅぎょう)(いた)すべし

現在諸人の有さまは   皆これ過去の報いなり

六根器量のよき人は   忍辱柔和の果報なり

生れて醜きそのものは   腹を立たる其のむくひ

貧乏無福(むふく)に生るゝは   慳貧(けんとん)邪見(じゃけん)の其のしるし

唖聾(おしつんぼう)となるものは   仏法(そしっ)(とが)とかや

命も短く子もなきは   殺生したる報ひなり

子供男女の栄へるは   物の命を救ふゆえ

長命無病のその人は   慈悲心深き恵なり

福徳圓満なる家は   三寶供養の善根よ

利根(りこん)(はつ)(めい)すぐるゝは   念佛(じゅ)(きょう)の功徳なり

愚頓で無智なる其者は   畜生變化の者ぞかし

下劣で人に使はるは   (おいめ)をきたる報ひなり

業病惡病わづらふは   破戒で三寶(そし)(とが)

口中臭き(つた)なきは   惡口(あくく)(りょう)(ぜつ)人ごとよ

眼病色々やむ人は   佛に燈明おしむ故

下賤で人に(はぢ)かくは   憍慢(きょうまん)懈怠(けたい)の心より

高位高官備はるは   禮拝(らいはい)()(ぎょう)(その)功徳

五逆十惡造りなば   無間(むげん)三十六地獄

此経聽(このきょうきい)てあらためば   (すなわち)菩薩よ佛なり

此は過去にて現在に   (うゆ)れば未來の(たね)となる

(れん)(うゆ)れば(れん)の華   ()よ極樂に九品(くほん)まで

因果の道理明らかに  佛に虚はなきものぞ

只一向に疑はず   南無阿彌陀信ずべし

明治四十四年三月廿五日印刷・明治四十四年四月五日発行

著作発行者 此村庄助・発行書肆 此村欽英堂・大阪市南区心斎橋筋順慶町北へ入

国立国会図書館デジタルコレクション

永続的識別子:info:ndljp/pid/818646



[i] 鈴木隆泰,仏教と差別一前世の業の報いはあるのか一,山口県立大学社会福祉学部紀要第10号,2004年3月

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