構造主義・知ったかぶり

 この文章は、二十世紀の100年間に渡って人類の世界観の基礎となった「構造主義」を概覧することで「ポスト構造主義」を理解したり、インターネットとグローバル化された時代を渡っていくためにやがて現れて、人類共通のものになるであろう「次の世界観」を受け止めていくための準備として自分自身のためにまとめたものであります。
 「いや実は構造主義って言葉、良くわからないまま使っているんですよねぇ、えへへ」と感じている、そこの貴方にも参考になれば幸甚であります。
 なお、構造主義を語るときに使われる言葉をいくつかまとめて別のページにおきましたので、そちらのほうも参考にしていただければ幸いです。

1.前構造主義(マルクス/ニーチェ)2.構造主義の四銃士(フーコー/バルト/ラカン/ストロース)・・・以上このページ
3.構造主義の背景となる理論とか哲学とか・・・こちらのページ

参考文献
 内田樹「寝ながら学べる構造主義」文春新書,文藝春秋,2002/6/20
 橋爪大三郎「はじめての構造主義」講談社現代新書,講談社,1988,5,18

内田樹による構造主義終焉の様相

いずれ構造主義特有の用語(システム、差異、記号、効果...)を使って話すことに「みんなが飽きる」ときがやってきます。それが「構造主義が支配的なイデオロギーだった時代」の終わるときです。

【1】前構造主義

マルクス(1818‐1883)と構造主義
思想のエッセンス

人間は「どの階級に属するか(ブルジョワかプロレタリアか)によって、「ものの見え方」が変わってくる(階級意識)。人の個性とは「何ものであるか」ではなく「何事をなすか」によって決定される。人は自分の作り出したものを見て、「事後的」に自分を教えられる。

導き出される世界観

生産=労働による社会的関係のネットワークの「効果」として、さまざまなリンクの結び目として、主体が「何ものであるか」が決定される。人は自由に思考しているつもりで、実は階級的に思考している。「ネットワークの中心に自己決定的な私がいて全体を統制する」という見方を否定する「脱‐中心化」「非‐中枢化」の世界観。

構造主義との関係

主体の起源は、主体の「存在」にではなく、主体の「行動」のうちにある。これが構造主義の一番の根本にある。

フロイト(1856 - 1939)と構造主義
思想のエッセンス

人間が直接知ることのできない心的活動が人間の考えや行動を支配している。その心的活動が「無意識」である。また、人は自由に思考しているつもりでも、自分が「どういうふうに」思考しているかを知らないということを、意識と無意識の間に存在する「抑圧」のメカニズムで説明した。そして、抑圧は、二つの無知で構成され、その構造によって私の意識は決定的な仕方で思考の自由を損なわれているとする。

意識と無意識間にある抑圧の基準がわからない事

そもそも、その抑圧があるかどうかを知らない事

導き出される世界観

私たちは、生きている限りかならず「抑圧」のメカニズムのうちに巻き込まれている。そして、ある心的過程から組織的に眼を()らしていることを「知らないこと」が、私たちの「個性」や「人格」の形成に決定的な影響を及ぼしている。私たちは自分を個性豊かな人間であって、独自の仕方で物を考えたり感じたりしているつもりでいるが、その意識活動の全プロセスには「ある心的過程から構造的に眼をそらし続けている」という抑圧のバイアスがつねにかかっている。

構造主義との関係

私たちは、自分が何者であるかを熟知しており、そのうえで自由に考えたり行動したり欲望したりしているわけではない。また、人間主体は「自分は何かを意識化したがっていない」という事実を意識化することが出来ないという知見である。これが前‐構造主義期において提示されたことである。

ニーチェ(1844‐1900)と構造主義
思想のエッセンス

私たちにとって自明と思えることは、ある時代や地域に固有の「偏見」にほかならず、「われわれに対して、われわれは決して『認識者ではない』」すなわち「自己意識を持つことが出来ない存在である」とする。そして、われわれの対極にある「超人」を提示する。

導き出される世界観

自己超克(ちょうこく)(踏み越える)の向上心を持ち続けようとするものは「そこから逃れるべき当の場所」をはっきり(ゆう)徴化(ちょうか)(他と峻別する)し、固定化し「いつでも呼び出し可能な状態」にしておくことを求める。超人たらんとするものは、おのれの「高さ」を観測する基準としての「永遠の賤民」を指名(有徴化)し、かれらを縛り付けることに同意することになり、優生思想や反ユダヤ主義につながる世界観を図らずも提示した。

構造主義との関係

古典文献学を通じて理解された、過去のある時代における社会的感受性や身体感覚のようなものは「いま」を基準にしては把握できないという理解と、過去や異邦人の経験を内側から生きるためには、緻密で徹底的な資料的基礎づけと、大胆な想像力と伸びやかな知性が必要とされる、という考え方がミシェル・フーコーを経由して構造主義成立の基盤の一つとなった。

【2】構造主義の四銃士

ミシェル・フーコー(1926-1984):系譜学的思考
思想のエッセンス

思い込みの粉砕。フーコーの「社会史」の仕事は、人間社会に存在するすべての社会制度を、その誕生の現場までさかのぼって見て、過去のある時点での、いくつかの歴史的ファクターの複合的な効果として確認する。そして、歴史の流れが「いま・ここ・私」へいたったのは、様々な歴史的条件が統合されていったのではなく、さまざまな可能性が排除されて、むしろどんどんやせ細ってきたプロセスではないのか、というのがフーコーの根源的な問いかけである。

あらゆる知の営みは、それが世界の成り立ちや人間のあり方についての情報を取りまとめて「ストック」しようとする欲望によって駆動されている限り、必ず「権力」的に機能する。知と権力は近代において人間の「標準化」という方向を目指してきた。

導き出される世界観

歴史を「生成の現場」にまで遡行することによって、常識をいくつも覆していった。

正気と狂気は「科学的な用語」を用いて厳密に分離可能であるとする考え方は、近代になって初めて採用されたものである。

身体も一個の社会制度である。(日本人の歩き方の変化(ナンバ[i]の放棄)。アメリカでの身体は大きければよいとする身体感。)

国王二体論。国王は、普通の人間と同じように病み、死ぬ身体のほかに、意味によって編まれた「政治的身体」を有する。

国家は身体を操作する

構造主義との関係

構造主義とは、人間的諸制度(言語、文学、神話、親族、無意識など)の生成の現場(ロラン・バルトのいう「零度」)を探求することといえる。

ロラン・バルト(1915-1980):零度の記号
思想のエッセンス

バルトの仕事はまとめてソシュールが定義した所の「記号(signe)」を基にする記号学という名称の元に包括することができる。ソシュールの提示した記号学を実際に展開し、文学テクスト、映画、舞踏、宗教儀式、裁判、ファッション、自動車、モード、広告、音楽、料理、スポーツ...およそ目に触れる限り煮の文化現象を「記号」として読み解いた。

言語の運用における「不可視の規則」が「ラング(langue)」と「スティル(style)」であり、それらを規制しているのが「エクリチュール(écriture)」である、とする。言語を外から規制する「ラング」は日本語を話す人たちといった「言語共同体」がその言語に共通して持つ「語彙」「発音」「文法」といった規則と習慣の集合体である。一報「スティル」は言語を使う一人ひとりの個人的で生来的な言語感覚をさす。そして、この二つを「社会的に規制するもの」が「エクリチュール」である。「エクリチュールは、書き手がおのれの語法の『自然』を位置づけるべき社会的な場を選び取ることである(バルト)」

導き出される世界観

バルトは、余りに広く受け入れられたせいで「どの集団固有のエクリチュールとも特定しがたくなった語法」の危険性を警告している。それは、「無徴候的なことばづかい」であり「覇権を握った語法」とも言え、その社会における「客観的言葉づかい」として、私情を交えずに価値中立的にかたっているつもりでいるときに使う言葉づかいであるが、そこに含まれる「予断」や「偏見」にバルトは注意を促している。たとえば、フェニミズム批評理論における私達の社会における「自然な語法」は「男性中心主義」的語法であるといった指摘である。

「テクストはさまざまな文化的出自を持つ多様なエクリチュールによって構成されている。しかし、この多様性が収斂する場がある。その場とは、(中略)読者である。(略)テクストの統一性はその起源にではなく、その宛先のうちにある(バルト「作者の死」)という一節はインターネット・テクストに当てはまる。自分の作品が繰り返しコピーされ享受されることを「誇り」に思うオープンソースの文化が構造主義的な景色なのであろう。

構造主義との関係

構造主義のさまざまな理説のうちで、日本人の精神にもっとも深く根づきよく「こなれた」のはバルトの知見である。日本のテキスト文化において、俳句に象徴されるような「見事に説明しきること」や「理非曲直を明らかにする」ことより「無根拠に耐える」「宙吊りのままでいる」ことを成熟の指標とするところに、バルトはどんな刻印も押されていない理想の「白いエクリチュール」を見ていたのである。

ジャック・ラカン(1901-1981):分析的対話
思想のエッセンス

「鏡像段階」:子供は鏡を覗き込むことによって「私」を手に入れる。鏡像段階は「ある種の自己同一化として、つまり、主体がある像を引き受けるときに主体の内部に生じる変容として、理解」される。

人間にとっての世界のあり方を「現実界(言語で語りえない場)」「象徴界(言語活動の場)」「想像界(イマージュ[ii]や表象の場)」3分類する。

「父-の-名」:人間は成長するにつれて母の乳房から離れるように、想像界に安住するのを禁じられ、社会的な法の要求によって、社会という言語活動の場に引きずり出され、自分が全能ではないという事実を受け入れる。そのプロセスを[父-の-名] (父の命令)と呼ぶ。

導き出される世界観

鏡に映る私を私として「見立てて」そこに「自我」を手に入れても、「私」の根源は「私ならざるもの」によって担保されており、「私」の原点は「私の内部にいない」ということであり、鏡像段階を経た人は「私の誕生」と同時にある種の狂気を病むことになる。

また、言語活動の場である「象徴界」で生きていかなければならない人間は、他者との言語的交流を通じて「物語を共有する」という往還運動(人間の社会化プロセス:エディプス)によって人間的「共生」が成り立つたつ世界観を得る。

構造主義との関係

ラカンは、フロイトの提示した無意識の領域に、ソシュール以来の言語学・記号学の概念や分析技法をつかって、言語による構造化が成り立つことを主張する。人間の成長においても、鏡像段階からエディプスを通じて構造化が進行していくと考えていた。

レヴィ・ストロース(1908-2009)
思想のエッセンス

レヴィ=ストロースは、主体の思考(ひとりひとりが責任をもつ、理性的で自覚的な思考)の手の届かない彼方に、それを包む、集合的な思考(大勢の人びとをとらえる無自覚な思考)の領域が存在することを示した。それが神話である。神話は、一定の秩序―個々の神話の間の変換関係にともなう、〈構造〉をもっている。この、〈構造〉は、主体の思考によって直接とらえられないもの、'不可視'のものなのだ。

導き出される世界観

射影幾何学の体系化をきっかけにして、数学における構造主義が誕生した。こんなふうに、〈構造〉を研究するのは、そもそも、主体とか客観とか、なにか実体を考えてしまう発想とは対極的である。レヴィ=ストロースは、代数学の、〈構造〉の話しかしなかったみたいだけれども、幾何学の、〈構造〉にも話を広げてみれば、構造主義の方法のなかで主体が消えていく理由が、よくわかる。

構造主義との関係

レヴィ=ストロースが見出したものは、西洋近代文明に対して、いわゆる「未開」社会にも豊かな社会機構や精神世界が存在し、それらは人間社会の「構造」としてとらえることが出来る、ということであった。そして、近代思想の一つ「実存主義」を超える存在となっていく。



[i]「ナンバ」とは、同じ側の手足が同時に出る歩き方(同側型動作)の事。

[ii] イマージュ:事物に対し特定の姿を想像するという意味

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