フィルターバブルに関する補足的考察:スキーマと確証バイアス

フィルターバブル──インターネットが隠していること(ハヤカワ文庫NF)文庫-2016/3/9
イーライ・パリサー(著),‎井口耕二(翻訳)
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この本の中からフィルターバブルに関し考察しつつ抜き出した。ページ表記はこの本のページを示す。

(118ページから、)

人間は

  • ●予想通りに不合理である。
  • ●どうすれば幸せになれるのかを理解するのが絶望的に下手である。
  • ●皆、簡単に騙され操らで誤った方向に誘導されてしまう。

誤りや失敗に繋がる認知の過程はまた、変化していく世界に対処しそこで生きていくために必要な能力や知性を生む源でもある。どうしても失敗に注目しがちで気づかないが、ほとんどの場合、吾々の脳は驚くほどうまく働いているのだ。その背景には認知の均衡を取ろうとする機能がある。自覚はないが我々の脳は過去からも学びすぎず現在から新しい情報を取り入れすぎるという微妙な綱渡りをしている。

パーソナライズドフィルターは既存アイデアの強化と新規アイデアの習得という認知的均衡を二つの側面から狂わせてしまう。一つはフィルターバブルにおいて我々は知っている(かつ賛同している)アイディアに囲まれてしまい、すでに持つ観念的な枠組みに対する自信が過剰になってしまう。もう一つは学びたいと思うきっかけとなるものが環境から取り除かれてしまう。

スキーマによる認識

人の場合まずデータを大幅に圧縮する。目から入る映像も耳から入る音声もその要点だけをとらえた概念へと圧縮する、これをスキーマと呼ぶ。

補足:例えば、タイヤが4つ付いていて、人が出入りする扉があり、中にはハンドルや座席があり、一部ガラス張りで中が見える鉄の塊というと、多くの人は「自動車かな」ということが頭に浮かび、少なくとも電車や馬車とは違うものだろうということが分かる。
こうしたことを理解できるのは、車スキーマとでも呼ぶべき、車について一般化された知識を持っているからである。[1]

厳格には行為のスキーマであるシェム、モノのスキーマであるシェマ、に分けられる。[2](「ピアジェに学ぶ認知発達の科学」玉川未読)

スキーマはその下に別のスキーマを含む階層構造を持つ。自動車スキーマを例にとると、その中にセダンスキーマとか、クーペスキーマ、といったスキーマを含む。

確証バイアス

スキーマは現実に起きていることの直接的観測を妨げる場合もある。我々はスキーマを取得するとそれを強化しがちである。つまり見たいと思うことを見るようになるのだこれを心理学では確証バイアスと呼ぶ。
補足:例えば「今の若いやつらは××である」というスキーマを強化するために、それを補強する情報だけを集めてきて「な、だから××なんだよ」と補強する。

スキーマと確証バイアス

スキーマは我々の頭の中で孤立して存在しない。我々の頭の中でアイデアはネットワーク上にまたピラミッド型につながっている。つながりあった系全体が崩れることも考えられる。スキーマが蝕まれないように支える保守的な精神力が確証バイアスなのだ。しかし、子供が様々な経験をしながら成長するように、我々は世界に合わせてスキーマを調整しスキーマに合わせて世界を調整しながら成長が進む。補足:いつまでも自動車には4つタイヤがついているとは限らないし、若者のすべてが無分別なのではないのだ。

フィルタリングについて

補足:先に記述したように、確証バイアスを補強するためには、情報の選択(都合のよいように)の努力が必要である。

しかしフィルターバブルには三種類の問題がある。(23ページ)

一つには、一人ずつ孤立しているという問題。

ケーブルテレビの専門チャンネルでゴルフなどごく狭い範囲を取り扱うものを見る場合でも自分と同じ価値観や考え方を持つ人が他にも見ていると言う認識がある。それに対してバブルには自分しかいない。バブルは我々を引き裂く遠心力となる。

二つには、バブルは見えないという問題。

革新系ニュースの場合ほとんどの人は政治的に偏向しているとわかった上で見ている。対してGoogleは微妙だ。私がどういう人だと思っているか教えてくれないし、Googleが提示する結果がどうしてそうなっているのかも教えてくれない。バブルの内側から見ているだけでは、私に届く情報がどれほど偏向しているのかまずわからないという現実がある。補足:そもそも個別の記事が個々にネット上を流れるという現代的情報環境で、それがどのメディアブランドで生成されたのか確認しにくい。下記参照

三つには、そこにいることを我々が選んだわけではないという問題。

テレビ・ニュースを見る、新聞・雑誌を読む、などの場合、それぞれのメディアブランドを通じて、どういうフィルターを通して世界を見るのか我々は自ら選んでいる。動的な行為なのだ。パーソナライズされたフィルターの場合自ら選択することがない。しかもフィルターはウェブサイトに利益をもたらすために使われているという理由で、今後は避けたくても避けにくくなる一方だろう。補足:記事のターゲティング・フィルターと広告のターゲティング・フィルターは、元来別のものだが、フィルターされた好みの記事ページは滞在時間は長くなり、それだけ広告接触される可能性は高まると期待されている。

補足的考察

Googleにも言い分はある。Googleではアカウント情報というセクションで私の行動履歴や関心に関して調整できるようになっている。しかし、膨大なページにわたってそれらを管理するという、インターネット時代の新しいリテラシーを手に入れるためには、相当な努力が必要であるということが2・3ページの情報を見るだけでわかる。そんなことは学校でも当分教えてくれないだろう。

Facebookにおいてもアクティビティログという自らの行動に関する情報を確認するページがある。しかし、ソーシャルグラフ(友達の関係性)をベースにしたフィルターを実装しているサービスにおいては、個々の友達の行動にアクセスするわけにはプライバシー上いかないので、友達と私の関係性を確認しその結果どのようなコンテンツが表示されるかを確認するということは技術的に不可能であると考えられる。

そもそも友達といったところで私が友達に対してどのような感情(例えば心から信用をしているのか、実世界の付き合い上友達になっているだけなのか)を持っているのを、システムが理解するのは困難ではなかろうか(AIが進化すればどうなるかわからないが)。「いいね!」という反応も心の底から同意しているのか、はたまた皮肉を込めてボタンを押しているのか判断するには、用意された6つのボタンでは少なすぎる。

ただ、Googleのように私個人に閉じたフィルターをかけるサービスとFacebookのような友達関係という、ある程度開かれた関係の中で生じるフィルターを提供するサービスをうまく使いこなせば一定の気づきが得られるのではないかと考えられるし、実際そのような経験をしている。例えば、GoogleNewsに流れてくる私好みの記事を、Facebook上で私の友達は批判的な反応をしている、といった場合だ。(そういう意味で友達には多様な意見を持つ人を選ばなければならない)

フィルターバブルの弊害

フィルターバブルは確証バイアスを劇的に強めてしまう。一方(人にとって)新しい考え方をしなければならなかったり、仮定を見直さなければならなかったりする情報処理は苦痛だし難しい。補足:子供のころにはあれほど日常的であったスキーマの調整が、歳をとるにつれて重荷になってくるのだ。

クリック信号(補足:webページ上の複数のリンクの中で、クリックしたものが、その人にとって重要であるとする考え方(20ページ))を基準に情報環境を構築すると、既に持っている世界の概念と衝突するコンテンツより、そのような概念に沿ったコンテンツが優遇されてしまう。フィルターバブルに囲まれると既に知っていることを正しいとするコンテンツの割合が大幅に高くなるのだ。

「グーグル化の見えざる代償ーーWeb・書籍・知識・記憶の変容」にこう書いている。

「学びというのはその定義から自分が知らないこととの遭遇となる。考えもしなかったこととの遭遇、想像もできないこととの遭遇、理解などできないこと、とても楽しめないこととの遭遇となる。何か別のものとの遭遇-そのような異なるものとの遭遇となる。インターネットを検索する人と検索結果との間にGoogleが置こうとしているようなフィルターはそのような根源的な遭遇を作者から隠してしまう。」

フィルタリングが完全に行われた世界は予想外の出来事やつながりという驚きがなく、学びが触発されにくくなる。この他にももう一つ、パーソナライゼーションでダメになる精神的なバランスがある。新しいものを受け入れる心と集中のバランス、創造性の源となるバランスだ。(127ページ)

google検索では「プライベート検索結果を表示しない」という設定があるが、プライベート検索結果の詳細について説明するページは無い

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[1] 「◆ スキーマ理論 ◆」熊本大学大学院 社会文化科学研究科 教授システム学専攻, http://www.gsis.kumamoto-u.ac.jp/opencourses/pf/3Block/08/08-2_text.html

[2] 『ピアジェに学ぶ認知発達の科学』J. ピアジェ (著),‎ Jean Piaget (原著),‎ 中垣 啓 (翻訳)、北大路書房,2007

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