メディアの軽量化

流通と広告を捨て、今こそジャーナリズムの原点に。
言論の発露であるコンテンツは、それが、いかに小さなベタ記事であってもそれを書く人の目利き(思い)が入っています。例えば、新聞社がコンテンツ流通と、広告を捨てて、コンテンツジェネレートだけの機能だけになったとしても、その新聞社としての言論(言説)はオリジナルなものとして維持することは十分に可能なはずです。そもそも、ジャーナリズムとは毎日毎日とどまることなく言論を作り続けることで、紙に毎日文字を印刷して配ったり、1秒の隙間もなく動画・音声の載った電波を発信していく事は本質的機能ではありません。
インターネットの限界コスト0時代の情報環境で、コンテンツの流通機能を保持していくのは、情報産業にとっては、非常に非効率(金のかかる)ことだと理解できます。
仮に、通信社のように、流通網をまったく持たないというわけにいかないのならwebサイトを立てればよいでしょう。ただし、広告機能はネットワークからの物か、よほど特殊なタイアップ(ものすごく儲かるもの)だけに止めるべきだと思います。
あとは、コンテンツを外販する。
コンテンツの流通はそれを買った人が考えればよいと思います。新聞紙に刷って配りたい人がいてもいいし、ポータルサイトのような編集(編成)機能でメディアを成り立たせるサイトがあってもいい。いくらかのミドルメディアは、いくつかのジャーナリズムから同じ件についての記事を買い、比較することで、新しい言説(コンテキスト)を見つけ出し読者を獲得していくこともあるでしょう。
もちろん、個人bloggerや、Twitterたちへは廉価で記事を"売る"ことも可能。事実mixiなどの広告モデルサイトは、ネタとしてのニュース情報は、ニュース提供社から購入しています。
いまこそ、新聞社・雑誌社・放送局は流通と広告に別れを告げて、身軽なジャーナリズムとして、見識を磨いて個人ジャーナリズムに負けないプロ集団になるべきだと思います。
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