メディアは技術である。

マクルーハンにたてつこうという気はさらさらにありませんが、やっぱり、わかりやすいところで、メディアは言論を他に伝えるための"技術"である、と定義しようと思います。
メディアそのものがメッセージであるとすれば、自動車にも、椅子にも、あらゆる人工物には、メッセージがこめられて、日々私たちをアフォードしているわけですから、すべてがメディアであると言えるでしょう。 しかしながら、この文章は、"メディア"だけを切り分けて議論しようと思いますので、技術としてのメディアについて考察を続けます さて、原始、言葉は人類が持った他の動物と大きく違う技術の一つであると言っても過言では無いでしょう。 2010/08/02 日本経済新聞の1面「春秋」に 『類人猿は出会った相手に敬意を表するときには「あっあっ」、見下して威嚇するときは「おっおっ」と叫ぶ。日本人の男性も同様で、目上への第一声は「あっ」、目下なら「おっ」になる。京大霊長類研究所などの発表はそんな内容だった。』 とありますので、現代日本人は言語上は退化しているのかもしれませんが、"あ"とか"お"だけでなく相当複雑な音表現を使って言語は成り立っています。 言語が技術であるといえる裏づけには、私たちは「英語」という言葉を習ったことがある、という事実があります。人に教えられること、はそれは技術と定義してよいのではないでしょうか。 東洋文明において、仏陀ほど言葉という技術を用いて人々の心を動かした人はいないと思います。そして、釈尊滅後数世紀を待って、文字という技術を使い、おびただしい数の経典が編纂されていきます。インドで編まれた経典が、玄奘三蔵(いわゆる三蔵法師さん)の指揮するプロジェクトによって梵語から漢語に文字に翻訳が出来たのも、文字というメディア技術によって、釈尊の言葉が(正しく話されたとおりであるかどうかは別にしても)固定化されていたからこそだと考えられます。 さて、文字と言う技術で言論を固定化していく先にあり、ジャーナリズムという"生業(なりわい)"を生ぜしめる技術は"印刷"であることに、反論は無いでしょう。 印刷機という文字大量複製装置を駆使することで、新聞社という言論機関はそれぞれの言語地域において、強大な力を持つことになります。そして、映画・ラジオ・テレビという、文字を離れて、直接視聴覚に訴えるメディア技術の発明は1対多コミュニケーションの飛躍的な広がりを実現するわけです。ただし、この3つの"非文字メディア"もいくつかの映像・音声の部品が編集されて一つの言論にまとめられたものであり、そこには"コンテキスト(文脈)"という言語(=文字)が表裏一体になってます。 また、テレビという電子メディアを見たマクルーハンが、文字文化を過去のものとして定義したのは、アルファベットという表音文字技術をベースにした議論であり、漢字文化圏では、その様相は違って考えなければならないと思います。
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